京都東山三条 白澤堂ブログ〜東洋の医学と哲学

東洋医学の魅力と奥深さを紹介するブログ

東洋医学における陰陽とは(1)

f:id:hakutakudo:20190825172539j:image

こんにちは!!!

京都東山三条の

鍼灸接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU

院長の長濱です。

当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 

今回は陰と陽についてのお話ですが、その前にプロローグとして、一元性、二元性についてのお話になります。

 

さて、陰陽というと、なにやら世界が陰のモノと陽のモノの二つからできているのであると、古代ギリシア四元素説的な解釈をしてしまいがちですが、そうではありません。

 

東洋医学的な観点では、世界はもともと、混沌とした一つのものでした。その一つであった状態を、太極なり太虚なり無極と呼んでいます(厳密には太極と無極は別の状態を指しますが、ここではあえて触れません)。

 

一つのものから、分かれて、最終的に現在の現象世界における多様で複雑な世界が形づくられたと考えるわけです。ですから、もともと二つであったのではなくて、一つです。

 

これは、世界を二つの異なるもの・原理から成り立つというところから思考がスタートする、デカルトプラトン物心二元論朱子学の祖・朱熹理気二元論などとは異なります。

 

前者(東洋哲学の観点)は、世界は一つの原理・要素で成り立っていると考えるわけで、この思考を一元論といいます。

 

ここで、陰と陽は二つじゃん!!って思う人もいるでしょう。それはその通りです。

 

陰と陽というのは、一個の世界を相対的な見方でみているということです。一枚のコインの裏と表、みたいな表現はよく聞きますね。

 

陰と陽の話をするとき、例えば男と女、善と悪、形而上と形而下、というように、二元論と同じく二項対立的な分け方をするので話がややこしくなるのですが、陰陽概念自体が絶対的なものではなく、相対的な概念なので、二元論ではないということですね。

 

ここで使った「相対的」という意味がどういうことかといいますと、例えば人間の身体でいえば、お腹側は陰です。その時、背中は陽になります。しかし、お腹側の中でも、胸は陽であり、腹は陰です。腹の中でも、臍より上は陽、臍より下は陰です。つまり、陰である腹の中で、陰陽がさらに細分化されることになり、陰陽の中に陰陽があるという入れ子構造となっています。これを陰陽の「重層性」とか「陰陽可分」と呼びます。従って、絶対的な陰、絶対的な陽というものはなく、陰が極まれば陽に転じ、陽が極まれば陰に転じる・・・。例えば、先ほどは陰であると思っていたお腹が、今度はもっと奥にある内臓と比較して見てみれば、お腹は陽になってしまう。これを「陰陽転化」といいますが、この性質を陰陽の「相対性」「多義性」と呼ぶわけです。

 

一方、二元論という語を「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」で調べると、

異質で相互に還元不可能な2つの原理を基礎とする宗教的世界観や哲学説などのこと。

 とあります。"相互に還元不可能な2つの原理"とありますが、陰は陽に転化し、陽は陰に転化するわけですから、相互に行き来が可能で、万物が絶対的な陰と絶対的な陽の2つに帰納されるわけではないんですね。陰と思っていたものも見方によっては陽に扱われてしまうわけですから。

 

だから、陰陽二元論とは、本当はいいません(というのは私の意見です)。

 

それでも、陰陽はやはり二元論であるという反論はあるかと思います。実際陰陽は二元論であると書いてある書物やWEBサイトの方が多いですから。陰陽そのものだけに限っていえば、そうなのかもしれません。しかし、陰陽概念だけを取り出して、二元論であると考えるのは本末転倒です。もともと東洋医学・哲学は一元論なのですから。

 

陰陽二元でなく、一元論であるというなら、その一は何なのかと言いますと、「気」です。東洋哲学は気一元の理論なのです。気という概念なり物質が(気は概念であり物質でもあります)、様々に流転変化して複雑多様な現象世界を創っていると考えるわけです。

(ヒモ状の広がりをもった物質が最小単位であると考える超弦理論においては、そのヒモが閉じているか、閉じていないか、またはどの程度振動しているかによって多様性が生まれるとしていますが、元をたどれば世界はヒモという1つの物でできていて、万物を説明しようとするわけですから、これも一元論なのかもしれません。ヒモ一元。)

 

一元論とは、ちょうど水面に小石を一つ落として、波紋が広がっていく様と同じと思っていただければ良いです。一から多へと投射するような考え方です。余談ですが、一つの原理から広げていく見方なので、これは思索の方法でいえば、「演繹(えんえき)」に相当します。

 

一方、二元論の場合は、この波の起点が二つになり、波同士が幅寄せていくような思考で、複数の点から原点へと回帰するわけですから、帰納法に似ています。

 

話がそれたような気もしますが、ここを出発点としてしっかり押さえておかないと、東洋医学・東洋哲学の認識が間違った方向へと進んでしまうのではないかという老婆心(!?笑)から、しつこく解説しております。

 

なぜこの部分が大切であるかというと、生命というもの、あるいは宇宙というものは一体のものであるのに、そこからの視点を忘れて、まるで陰と陽という二つのものが最初にあって、生命なり宇宙を分析しようとしてしまうことに陥ってしまうからです。これを忘れて勉強してゆくと、例えば「五行」という概念がでてきたら、木・火・土・金・水という5要素から人間ができているのだと考えてしまうことになります。

 

これは、現代医学の観点と同じなんですね。人間は、頭に脳があって、胸に心臓と肺があって、お腹に肝臓と胃と腸と膵臓があって・・・心臓はいくつの弁があって・・・とどんどん専門に分かれていってしまうわけです。次第に、パーツ(部分)が集まってできたのが人間という観点になりますから、さきほどの思索の方法の話でいけば、これは「帰納法」なのです。

※念のため、「演繹」と「帰納」のどちらが優れているとかいう話ではありません。ただ、どちらかといえば現代医学の思考は「帰納」の手法が色濃いですし、東洋医学の思考は「演繹」主体であり、相補的な立場であるということです。

 

ではどうして分けるのでしょうか。それは、分かりやすいからです。

 

もともと聖人は、自然をそのままに見つめることができました。混沌とした太極の世界の中にあっても、言葉を用いずありのままに認識できたため、分ける必要などなかったわけです。(曇りなき眼というやつです)

聖人處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭・・・

(聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行う。万物の自生にまかせて作為を加えず・・・        

    『老子』蜂屋邦夫/訳注 岩波文庫

 

しかし、聖人に比べて知恵のない者に教え広めるには、そのように分けて教えなければ伝わらなかったのでしょう。

 

次第に、本来の自然を一元のままにみつめる、という観点は忘れさられてしまったように感じます。東洋医学の、全体を有機的な統一体として観ることを意味する「整体観」という語は残ってはいますが。

 

一体なる世界を、陰陽という二つの角度からみて、さらに五行という五つの観点から見れば、分析的に思考を進めることができるのは、それは確かです。ですから、実際に東洋医学を勉強しようとするならば、一である太極の視点、陰陽という二の視点、天地人三才という三の視点、四という四象四時の視点、五という五行の視点・・・など、自分がどの立場に立って眺めているのかを常に意識しながら、その根底には「原道」たる一のものをみつめているのだということを忘れなければよいと思います。

 

当ブログでも様々な内容をご紹介しますが、まずは、この「一」の観点を是非覚えておいてください。それが東洋医学の魅力を知る第一歩であると思います。

 

最後に、締めくくりとして、《淮南子》における序文を掲載します。

夫道者,覆天載地,廓四方,柝八極,高不可際,深不可測,包裹天地,稟授無形;原流泉浡,沖而徐盈;混混滑滑,濁而徐清。故植之而塞於天地,橫之而彌于四海;施之無窮,而無所朝夕。舒之幎於六合,卷之不盈於一握。約而能張,幽而能明,弱而能強,柔而能剛,橫四維而含陰陽,紘宇宙而章三光。甚淖而滒,甚纖而微。山以之高,淵以之深,獸以之走,鳥以之飛,日月以之明,星曆以之行,麟以之遊,鳳以之翔。

<読み下し>

夫れ道なる者は、天を覆い地を載せ、四方に廓り、八極に柝く。高くして際む可からず、深くして測る可からず。天地を包裹し、無形に稟授す。源より流れ泉の浡くがごとく、沖しくして徐ろに盈ち、混混滑滑として、濁れども徐ろに清む。故に之を植つれば天地に塞がり、之を横たうれば四海に弥り、之を施せば窮まり無くして、朝夕する所無し。之を舒せば六合を幎い、之を巻けば一握に盈たず。約なれども能く張り、幽けれども能く明らかに、弱けれども能く強く、柔らかなれども能く剛し。四維に横たわりて陰陽を含み、宇宙を紘ぎて三光を章らかにす。甚だ淖らかにして滒く、甚だ纖くして微かなり。山は之を以て高く、淵は之を以て深く、獣は之を以て走り、鳥は之を以て飛び、日月は之を以て明らかに、星暦は之を以て行り、麟は之を以て遊び、鳳は之を以て翔ける。

 出典:『訳注「淮南子」』池田和久 講談社学術文庫

 

 

鍼灸接骨院《白澤堂HAKUTAKUDOU》

京都東山三条 鍼灸・接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU