京都東山三条 白澤堂ブログ〜東洋の医学と哲学

東洋医学の魅力と奥深さを紹介するブログ

天人地三才の思想

こんにちは!!!

京都東山三条の

鍼灸接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU

院長の長濱です。

当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 

前回は「陰陽」についてご紹介しました。陰陽は、太極を二つの視点で捉えなおすものでした。

今回は、2つに分けた陰陽(天地)の間に人界を置いて、世界を3つの視点で捉える思想のお話です。

 

 

1.三才(天・人・地)

「天・地・人」という言葉を聞いたことがあると思います。昔、NHK大河ドラマで「天地人」というのがありましたしね。

 

でも正しくは、「天・人・地」です。

 

森羅万象は「天・人・地」の働きによって成り立っていると考えるのが三才思想です。

 

まずは、東洋の宇宙観をみてみましょう。陰陽が別れて天地ができる宇宙の生成についての記載は、《呂氏春秋》や《淮南子》にみられます。

 

呂氏春秋》と《淮南子》については、安岡正篤氏の『呂氏春秋を読む』の冒頭では以下のように述べています。

『呂覧』はシナ古典の中でも最も基礎的な、そして代表的な文献の一つであります。『史記』などではこれを『呂氏春秋』と申しておりますが、原名は『呂覧』でありまして、先秦文化のエンサイクロペジアとも言うべきものであります。

秦の始皇帝などの出現しない前の、古代民族の宇宙観・自然観・人間観というものが実によくまとめられてある。後世の思想・学問の多くに、これが流入しておると申してよろしい。

この書物に次いでつくられた似たようなものが、漢代にできた『淮南子』という書物で、これはどちらかと言うと、『呂覧』の方がより一般的であるのに対して、より多く老荘的(黄老的)であります。少くともこの『呂覧』や『淮南子』を読まなければ、後世のものを読んでも、それは川の本流を究めずして、いろいろの支流に遊ぶのと同じような感じがするのであります。

呂氏春秋》と《淮南子》が東洋思想や学問の本幹をなし、後世に与えた影響の大きさがわかる説明となっています。東洋思想の川の本流とまで評価していますしね。

 

私自身も、安岡氏の一般著書を何冊か読みました。そのどれもが古典を現代に活かすためのポイントを簡明に書かれておられます。氏が昭和後期に亡くなられてからも、必携の書として広く長く愛読されています。ブログの最後にリンクを載せておきますので、東洋思想にご興味のあるかたはご一読ください。

   

さて、《呂氏春秋・有始覧》には、

天地有始。天微以成、地塞以形。天地合和、生之大經也

とあり、天は目を凝らしてもみえないほど微細の物を以って成り、地は凝滞充塞にして形成し、天地間陰陽の気が合して万物が生まれると説いています。

 

また、これも古い書物ですが《列子・天瑞》篇には、

清軽者上為天、濁重者下為地

とあり、同様の記述は以下のように《淮南子・天文訓》にもみられます。

清陽者薄靡而為天、重濁者凝滞而為地

軽く清らかで微細なものが上って天となり、重く濁ったものが凝滞して下って地をつくった、とあります。

 

何から、両者が分かれたのでしょうか。天地が分かれる前段階があるというのです。

建之以常無有、主之以太一。

荘子・天下》篇

萬物所出、造于太一

呂氏春秋・仲夏紀・大樂》篇

 

道教の世界観ですが、太一から陰陽(両義といいます)に分かれ万物ができたと(「たいち」ではありません、「たいいつ」。太乙とも書きます)

 

太一とは、万物の根源、無と有の区別すらない無為の状態です。無と有を超えた混沌とは一体どういうことでしょうか。ちょっと想像がつきません。

 

思えば、高校時代でしたでしょうか。

宇宙は140億年ほど前にビッグバンという大爆発から急に始まったと習いましたが、「なるほど、大爆発によって宇宙が広がったのか。えらい劇的でドラマティックな展開だな。でも爆発の前はいったい何があったんだ?」というような疑問が直後に沸いた方もいらっしゃるでしょう。

 

ビッグバンにより時空が生じる前は、何もなかったといっても、想像がつきません。空っぽの、真っ暗な、何も見えず何も聞こえないような状態であったといっても、やはりそれはそういう暗く静かな何かがあったと想像してしまうので、本当の無というのは、人間は想像することができないものです。

 

自然科学の分野である現代物理学でも、色々なことがわかってきましたが、それでも結局肝心なところはなかなかわかっていません。

 

例えば、南部先生が提唱された「自発的対称性の破れ」から、真空の状態を説明することができましたが、これもビッグバンが起こってからの話です。

 

この話を持ち出すなら、完璧な対称性を有していたビッグバン直前の超高密度のエネルギー凝縮状態が「太一」であるということができるかもしれません。対称性が保たれているために、陰と陽などあらゆる区別がないような状態だからです。

 

物理学でいう真空の意味も昔とは異なり、何もない状態を指すのではなく、場のエネルギーがゼロ以下の状態という極めて低温低エネルギーの安定した状態のことを指します。そのような状態においても、まったくの無ではなく、場のさざ波などと表現されますが、物質と反物質が作用して生成されたり消滅したりと、波のようなエネルギーのゆらぎがあるというのです。

 

こうなると、物質も突き詰めていけば、粒子であり同時に波でもあるというよく分からないことになってきます。しかも、波と言っても確率の波であり、粒子がそこに確かに存在するのではなく、なにやら確率的にもや〜っと雲みたいに広がっていて、有るような無いような、そして誰かが観測した時点でシュッと収束して存在を露わにします。確率波が最小単位となった時(現在、波には最小単位があるとされています)、粒子としての性質を持つということです。

 

世界を形づくっている物質自体が、突き詰めて素粒子レベルまで研究していくと、ひどくあいまいな振る舞いをするというのです。観測者が対象である素粒子の速度を測れば位置が分からなくなり、逆に位置が定まると速度があいまいになる…本態自体は白黒はっきりさせず、まるで捉えどころのない、これこそ混沌とした「太一」のような状態ですよね。

 

これまでは科学や物理学の分野では、「客観性」というものを徹底して研究してきたわけですが、本当に「客観性」というものがありうるのでしょうか。要するに、「観測者と対象」はスッパリと分離できる関係なのかどうかが、疑わしくなってきているのです。

 

様々なことが科学でわかるようになり、科学技術は私達が制御するのに手があまるほど高度に発展し、扱うエネルギー量も膨れあがりましたが、依然として「無とは何か」「命とは何か」「我々はどこからきたのか」などの核心に迫る質問には答えられません。

 

これらの質問は、言ってみれば禅問答のようにも聞こえますから、逆にいえば老子孔子など古代の思想家・宗教家が説いている世界観に再び戻りつつあるといえるのではないでしょうか。昔の人々は、世の中をより良いものにするために、天地がどのようにして成り立ったのか、自分達がどこから生まれ、どのように生きるべきなのかという問題が、日々の営みの中においても、とても大切だったのだと思います。

 

このように考えると、東洋思想はとても現実的・実践的な要素が色濃いものであると言えます。造物主を崇拝する一神教のような「神の世界」を持ち出さないあたりが、ひどく現実主義的なのです。

 

閑話休題

 

さて、《列子・天瑞》篇には、無と有を包括する太一の「無為」を説明する良い記述があります。少し長いですがお付き合いください。

生命であればそれを生み出したものがある。形があれば、形を作ったものがある。音があれば、音を発するものがある。色があれば、色を染めだすものがある。味があれば、味をつくるものがある。

生あるものはすべて死ぬ。だが、それを生み出したものは死なない。形あるものは目に見える。だが、形を形としているものは目に見えない。音そのものは聞こえても、音を音にしているものは聞こえない。色の区別は見ればわかるが、色を色としているものの姿は見えない。味があるのはわかるが、味を味としているものは現れない。これらはすべて無為の働きである。

無為は陰でもあり陽でもある。柔でもあり剛でもある。短でもあり長でもある。円でもあり角でもある。生でもあり死でもある。暑くもあり寒くもある。浮きもし沈みもする。宮(音階:ドのこと)でもあり商(レ)でもある。現れしも消えもする。黒くもあり黄でもある。甘くもあり苦くもある。生臭くもあり香ばしくもある。無為は無知であり無能である。と同時に全知であり全能である。

列子・天瑞》

 

天地陰陽が別れる前段階である太一は、無と有を内包し、自他の区別すらない大いなる無私の状態。言葉によって認識・分類される前の段階です。老子は、こうした太一のもつ無為の働きを、純粋無垢の赤子に例えたり、水に例えたり、名は知らないがあえて名づけるならば「道」と呼び、「道」は天であり、地であり、人であると説いています。

 

常に、自分自身、そして天地万物、過去と未来、すべて「道」と呼ばれる無為の働きによってつながっているのでは、と思えてきます。部分は全体の情報を内包している、という考え方です。東洋医学を学ぶ上で、基本となる考え方です。考えてみれば、60兆個ある細胞一つ一つにも、全身の情報がDNAに記録されているのでしたね。

 

「太一」の話から、もう一度「天・人・地」に戻ります。

 

大いなる一という太一から分かれ、天地ができ、天と地の二気が交流して、人が育まれます。太一は無能であり全能でもあったものが、「天・人・地」に分かれてからは、長所と短所があり、それぞれの役割や性質があるというのです。この3つそれぞれに備わった異なる働きを、総称して「三才」というのです。

 

天地に全功なく、聖人に全能なく、万物に全用なし。故に天は生覆をつかさどり、地は形載をつかさどり、聖人は教化をつかさどる

列子・天瑞》篇

 

それぞれ働きが違うがために、3者がうまく回る必要があります。

天と地と人が各々の役割を果たして協力しあうととることもできますし、

天は物を載せることができず、地は人を教化することができず、聖人は天の理に逆らうことはできない、というように、3つ巴のような関係ともとることができます。互いの扶助・制約関係は、五行思想と似ています。

 

 

2.自然界の清気・水穀の精微・父母からの腎精

人が生きていくには、天と地の気(エネルギー)を受けて生命活動を維持する必要があります。天と地の恩恵を受けずに生きることはできません。

 

天の気とは、空気です。我々ヒトは酸素を吸って二酸化炭素を吐く呼吸によって活動のエネルギーを得ています。呼吸を止めて天の気を取り入れなければ、たちまち死んでしまいます。東洋医学では、この天の気のことを、「自然界の清気」と呼んでいます。

 

地の気とは、飲食物です。食事をすることで、太陽のエネルギーを元に地が育んだ動植物の高純度なエネルギーを取り入れなければ、すぐではありませんが数日で死んでしまいます。そのために、食物連鎖の理から逃れることはできませんが、他者を通じて地の気によって養われるわけです。飲食物から得られるエネルギーを、東洋医学では「水穀の精微」や「後天の精」と呼びます。

 

天地から栄養されるだけではなく、ヒトが生まれ成長するためには、父と母からのDNAを受け継がなければなりません。このDNAのことを、東洋医学では「精」と呼んできました。精は腎が蓄えつかさどっていると考えられていますので、生まれて成長するためのエネルギーを、「父母からの腎精」とか「先天の精」などと呼びます。

 

まとめますと、人は天からの「自然界の清気」、地からの「水穀の精微」から栄養され、父母からの「腎精」によって生まれ成長するのです。

 

3.「魂と魄」、「気と味」

さて、それではヒトが死んだ時のことはどのように考えられているのでしょうか。

 

死ぬと魂が抜けると聞きますが、死んだ瞬間に体重が何グラムくらい減った、と研究した人がいたと聞いたことがあります(その真偽はよく知りません)。

 

東洋医学では、ヒトが亡くなった瞬間に、「命門」という腰のあたりのツボ(第2-3腰椎間にあります)から魂が抜けると考えています。ですから、ヒトが亡くなった直後に「命門」のあたりを触ると、そこだけ冷たいらしいです(さすがに、機会があっても、おいそれとできないですよね^^;)。

 

この命門は腎の間に位置し、腎というのは左右あり、人体における陰陽の要です。先程述べた腎精(先天の精)と呼ばれる人間の生命活動の中枢がこの部にあり、その反対に位置するお腹側はお臍で、「丹田」のある部位です。

 

ヒトは丹田や命門のある骨盤部が、エネルギー発生と貯蔵のセンターとなっているため、次代の命である子を成すための子宮や卵巣・精巣などの生殖器官も、必然的にこの部に位置するわけです。

 

「命門から魂が抜ける」という考え方は古くから例えば道教の中ではありましたが(ただし、もともとの仏教では霊魂の存在は認めません)、魂は抜けるとフワフワと天に昇っていきます(魂の「云」は、雲の意)。

 

そうすると、地には何が残るかというと、「魄」が残るのです。「魄」とは、白骨のことだと思ってください。

 

要するに、人は生きている間は天地のエネルギーの恩恵を受けていますが、死ぬと天と地に魂と魄という形で借りていたものを返さないといけないということです。

 

これが、死する時に現世への怨みがつよいと、魂と魄を天地に帰さず、「魂魄この世に留めて…」と四谷怪談のお岩さんのようになってしまうということです。

 

また、天から清気、地から穀味を受けるという意味で、「気と味」などと表現します。天地の気の交流が悪く、雰囲気の悪い様や、お化けでもでそうな雰囲気のことを「気味が悪い」なんて表現するのも、このあたりからきているのでしょうね。

 

 

4.上・中・下

「天・人・地」は、そのまま「上・中・下」という位置概念であるといえます。

 

これを人間に当てはめて考えるのです。

当てはめるのは、身体のどの部位でも相応するのですが、まずは全身に当てはめてみましょう。

 

人体における天(上部)は、横隔膜より上であり、つまり前胸部から上の首と頭部までです。内臓では、心と肺が当てはまります。

人(中部)は、横隔膜より下でおヘソより上までです。内臓では、胃や脾臓(東洋医学では狭義には膵臓のこと。西洋医学でいう脾臓と少し違うのです)や肝臓や胆のうが当てはまります。

地(下部)は、おヘソより下の部位で、腎臓や大腸・小腸、膀胱や生殖器があります。

 

ここで、上部、中部、下部と言ってますが、東洋医学ではこれを「焦げる」という字を使って、上焦、中焦、下焦と特別な言い方をします。合わせて三焦(さんしょう)と呼び、臓腑の一つに入れて考えられています。

 

さて、上下の気が交流する時、真ん中に位置する「中」の働きが大切であるという考え方が生まれます。

 

これが「脾胃論」と言われるもので、人間胃の気がなくなり食べれなくなると死んでしまうのです(現代は延命によってすぐには亡くなりませんが)。ですから、胃の気を重要視します。五行思想においても脾胃が肥沃な土であると考えるため、土を中心に据え置くのです。そのような意味で、胃の気を重視する流派が存在します。

 

天地二気の交流は、中焦である脾(己つちのと)の昇清作用と胃(戊つちのえ)の降濁作用の働きを借りて、スムーズに行われるということになります。詳しくは、またの機会に述べさせていただきます。

 

 

次に、顔面に上・中・下を配するとどうでしょう。

上:目から上のおでこ

中:目から下、上唇のあたり

下:下顎

と分けられます。

三叉神経というのがありまして、顔面を三つに分けて知覚支配している脳神経ですが、東洋医学における顔面の上中下の領域は、その支配領域とほぼ同じ範囲となり符号しています。

 

ツボの名前も、上部には通天・天衝など「天」のつくツボがありますし、中部には「人中」、下部には「地倉」というツボがあり、天人地という名前がそれぞれついています。

 

また、鼻から天気である自然界の清気を取り入れ、口から水穀を摂取することで地の気を取り入れるので、鼻は天、口は地であると言えます。その鼻と口の間に「人中」というツボがあることは、興味深いことです。顔面にも天地人の概念が活きています。

 

気絶すると、この「人中」のツボを天の方向(鼻に向けて)に向かって強く押さえて意識を取り戻させることが可能です。

 

突然のショック症状や衝撃により、気が腎まで降って昇らなくなりますから、天の気と地の気が一時的にうまく交流しなくなり、気が絶してしまいます。先程述べた理屈で、真ん中である「人中」を上に向けて押さえて気を天まで上げてくることで、再び天地の気が通り、気絶から回復させることができるのです。この時、一緒に「労宮」のツボを押さえても良いでしょう。驚いた時は、腎に気血がいってしまいますので、まず心臓に血液を返してやるのです。過去に、骨折のショックで意識を失った方で、人中と労宮を押さえて意識が戻られた方がいました。(心室細動で倒れた方や事故などで動かしてはいけない危急の場合はAEDや救急車が必要なので、やらない方がよいでしょう)

 

中国の方は、対(つい)の概念も好きですが、3つのまとまりも好きです。日本人の名は4文字の場合が多いですが、中国人の名前は3文字が好んで付けられます。

 

老子》の有名な一節「一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず」にもあるように、三は特別な意味をもっています。三つあれば多様性が生まれます。

 

万象を現す易の卦も三つの爻ずつで成り立つことや、DNAの設計図をもとにアミノ酸が3つのコドンにより記述されて多様なタンパク質が合成されることも想起させられます。

 

ですので、天・地・人の他に、「日・月・星」、「精・気・神」「気・血・津液」「生・旺・墓」「水・火・風(アーユルヴェーダ)」などの3つまとまりの概念があります。

このような考えから、今後も解説してゆくことになると思いますが、三陰三陽の概念なり、顔面を天、手を人、足を地として脈を診察する三部九候診の考えや、三焦の概念が派生していったのではないかと思います。

 

 

5.さいごに

天地人の概念はそのまま東洋医学哲学の世界観と直結しています。このイメージをもちながら古典を読んだり治療にあたることで理解が深まりつながりが生まれるので、大切であると思います。

 

天は動くもの。地は動かないもの。

このように書くと天動説のような印象を受けますね。しかし、やはり四季は巡り天の六気の影響を人は受け、地は動かないことで人は安定して生活ができます。そのような意味で、天地の役割を捉えていけばよいと思います。

 

人は天道と地道の二つの理の中間にあり、二気の栄養を受けて生かされているため、両者の性質を兼ね備えることになります。

そのため、天地の状態が乱れると、人間もその影響を受けるのですが、個々人の身体の強弱や体質、その時のコンディションによって、受ける影響の大きさにも多少がでてくるということになってきます。

このような個人差を考慮した診察法が、東洋医学の良いところであるとも思えます。1つの薬の開発が何百、何千万人もの単位で一挙に救うことのできる西洋合理的な科学を基礎とした現代医学は、やはりものすごい威力がありますし、恩恵も多大なものですが、個人差を考慮した個々の問題ということになると、東洋医学の強みではないかと思います。

 

残念ながら、天と地の状態を変えることは難しいので、人間の方が天地の動勢に合わせて、生活を変えなければなりません。そういった智慧を、養生というのでしょう。

 

もっとも、エアコンなどで環境の調節ができるようになりましたが、過剰な使用により、逆に体調を崩したり、そのほころびが気候変動にも影響してきています。天も地も人も、色々な面でつながっているので、人の環境を無理に変えれば、天地が狂いますし、難しい問題です。昔と比べると扱うエネルギー量が膨れあがっていますから、さらに加速度的に変化していくことでしょう。

 

先進国だけが快適な生活をすると、発展途上国の人々がまずそのツケを支払わなければならなくなります。

 

こういった問題も、天人地という広い視点で、なんとかバランスを保てないものでしょうか。

 

 


 

 

hakutakudo.hatenablog.com

 

鍼灸接骨院《白澤堂HAKUTAKUDOU》

鍼灸・接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU – 京都東山三条「痛み」で悩む方のための専門院