京都東山三条 白澤堂ブログ〜東洋の医学と哲学

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天人地三才の思想その2

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京都市東山区三条の鍼灸接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOUのブログです☆

 

今回は、天・人・地という「三才」について、

第二回目ということになりますね。

 

天・人・地の中で大事なのはどれだ?

 

三才とは、もともと全能であった一つの世界(太乙・太一・太極)が「天・人・地」という3つのものに分かれたがために、それぞれ長所・短所を有して、各々の役割と性質=能力を分担することとなったと考え、「三才」というのでしたね。

 

つまり、三才とは「天・人・地」のことですが、

換言すれば「陰」と「陽」と「その間」のことを言っているのです。

 

1つの事物を3つに分けた形になります。

もっといえば、1つの物が存在した時点で、「三」がすでに生まれているといえます。

 

説明するのにまわりくどくなりますが、

「デザイン」について考えてみましょう。

 

「デザイン」とはなんでしょう?

 

ググると、審美性を追求する計画行為みたいに書かれていますが、

デザインをデザインたらしめているものは何か。

 

それは、「差異(さい)」です。違いですね。

 

白の物体が白の背景の上にあったら、そこにデザインはありえません。

 

差異こそが「デザイン」を生み出すのです。

 

何が言いたいのかというと、

 

エッジ(境界)があれば2つのものを2つであると認識することはできるのですが、エッジがなければ認識できないのです。

 

つまり、白の物体が存在した時点(存在すると分かった時点)で、

白の物体と、それ以外の物という認識が成り立ちます。

 

と、同時に白の物体と、それ以外の物とのエッジ(境界)も認識しているわけです。

 

一を認識した時点で、三が成立している。

 

そして3つのものの組み合わせで多様な色彩(色の三原色・光の三原色)であるとか、素粒子の分野ではクオークであるとか、DNAの遺伝暗号であるコドンであるとか、八卦の成り立ちであるとか、多様性がそこから生じてくるわけですね。

 

お父さんとお母さんから子供が生まれて、また子供同士まじわって多様な人間が生まれると分かりやすいと思います。

 

これを、「一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ずる」と老子は謂ったわけです。

 

さて、ここで大切なのは、「エッジ(境界)」です。

 

「天・人・地」でいえば「人」。

 

人がいるから、天も地も認識できる。(なんと傲慢なのでしょう( ´∀` ))

 

天地宇宙が存在する意味も捏造できます。

 

人がいるから、天と地の区別もつけられるのです。

あそこから上が天で、ここから下は地だ、とか言えるんですね。

 

だから、陰と陽も大事ですが、その間が一番大事なんですよーという話です。

 

基準になりますから、

真ん中が大事なわけです。

 

「守中」

さて、三才の代表格は「天・人・地」ですが、

 

宇宙でいえば、「日・月・星」

地球でいえば、「水・火・風」

人でいえば「精・気・神」(=「体・心・魂」「形・気・心」)という三宝(三位一体)。

 

東洋医学で3つのものといえば、たくさんありますね。

 

「気・血・水」とか、脈の「寸・関・尺」とか、三陰三陽とか、前三田・後三田とか、「督脈・任脈・衝脈」、三焦(上・中・下)とか、「生・旺・墓」、八卦の卦象とか、外三合内三合など・・・

 

3つのものはたくさんありますが、「三才思想」というのは、ただ単に3つに分けただけのものではありません。

 

そこには、「守中」を重んじるという概念があるのです。

 

先ほども、真ん中が大事だと述べました。

 

真ん中というのは、儒教でいえば「中庸」のこと。

仏教でいえば「空」。

道教でいえば「無」。

キリスト教でいえば「愛」(なぜ愛なのかはまた後日)。

 

易経にも「一陰一陽之を道と謂う」という言葉がありますが、

ようするに偏陰偏陽はよくありませんよということです。

 

陰に偏ったり、陽に偏りすぎたりしてはダメですといっているのです。

一陰一陽がいいと言っています。

 

じゃあ3つあったらアンバランスだしダメじゃんとなりそうですが、

陰と陽が偏らないように監督している基準となる「間」が一番大事なのですよ、ということですね。

 

これを、「守中(しゅちゅう)」=「中を守る」と云います。

 

心身一如(しんしんいちにょ)

心身一如といいますね。

 

ココロとカラダは一つのものですよ~という話。

 

では、心と体は何によって一つになれるのですか?

 

たしかに、心の状態って身体に影響しやすいですし、体調が悪ければ心も塞ぎやすくなりがちです。

 

身が陰で、心が陽であるとすれば、

この陰と陽の間にも何かがあるはず。

 

そして、心と体を間に入ってつなぐものがあるはずです。

 

日々の出来事でうつろいやすい心身の状態を、間に入って舵をとってくれるものは一体何なのでしょうか?

 

 

答えは「気」です。

 

「精・気・神」といいます。

 

つまり、

 

精(身)と神(心)の間にあって、両者をつなぐものは、「気」です。

 

分かりにくければ、「気」≒「呼吸(息)」と思えばよいのです。

 

気息(きそく)ともいいますしね。

 

「呼吸」によって、心と身を一如のように「つなぐ」のです。

これを、「気功」というのですね。

 

(気功の「功」とは、つながることです。本来は内気を高めることで外気とつながり、外気を内気に変えていくことを指します。成功とは、功と成るの意です。)

 

ココロとカラダの「中」である「気」を調えることで、「心身」を統合・コントロールすることができます。

 

これが、「中を守ること」が大切である、という所以です。

 

呼吸の陰陽

ひとくちに「呼吸」と言ってますが、「呼吸」も陰陽のリズムです。

 

さて、どちらが陰でどちらが陽か。

どっちでもいいのですが、ここはこだわって、

「呼は陰、吸は陽」としましょう。

 

あれ?っと思った人も多いはず^^

吐くのは、空気が外に出るから陽じゃないの?

吸うのは、空気が内に入るから陰じゃないの?

 

でも、人間のカラダの中でいえば、吐くときは横隔膜や肺がしぼむので陰。吸うときは横隔膜や肺が膨らむので陽といえますね。

 

陰陽はみる視点によって異なります。

 

死生で考えてみましょう。

 

死ぬとき、人は息を吸う?吐く?

 

死ぬことを、「息を引き取る」っていいますね。

引き取るということは、吸うということ。

 

じゃあ、死ぬときは息を吸うんだ!

…ってことは死ぬということは、やっぱり「吸」が陰じゃん。

ってなっちゃう。

 

だから、

 

赤ちゃんが生まれる時、オギャーと泣くのは息を吐いてるので、生は呼。

死ぬ時はその逆で死は吸、という考え方があります。

 

筆者はこの意見に反対でして、

 

実際にはどうなのかというと、

死ぬときは下顎呼吸となって呼吸が荒くなって次第に弱くなって最後吐いて亡くなられるケースと、吸ってなくなられるケースがあるのですが、

 

要はどっちで止まるかという話で、基本的には死んで横隔膜が弛緩すれば吐くのです。吸った場合というのは、吐いたタイミングで横隔膜が弛緩して戻るから吸っているだけなんですね。

 

赤ちゃんも、オギャーと泣く前は、肺に充満した羊水を全部吐ききった状態で産まれてくるので最初は吸うしかありません。空気を吸わないと声がでませんからね。

 

ということで、やはり死ぬ時は吐いて、生まれる時は吸う。

つまり、呼吸の陰陽は、呼が陰で、吸は陽ということになります。

(中国ではどちらかというと、こちらの考え方のようです)

 

呼吸の陰陽の間には何がある?

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呼吸と陰陽

呼は陽、吸は陰ということになると、

上図のように、「吸」は陽なので昇る働きがあります。

「呼」は陰なので降りる働きがあります。

 

昇るのは木の力を使って昇ります。

降りるのは金の力を使って降りるので、

(経絡もそうですよね。陽経は金穴から始まり、陰経は木穴から始まります)

 

「吸」は東木、つまり「肝」の働きによって行われます。

「呼」は西金、つまり「肺」の働きによって行われることが分かります。

 

同時に肝に蔵されている「魂」は陽なので天に昇り、肺に蔵されている「魄」は陰なので地に降りますよね(死んだときには)。

 

そして、実は呼吸の呼と吸のあいだにも真ん中というものがあって、

 

それは何かというと、「脾胃」つまり土なんです。

 

脾胃は腹にあって、土とは肚(はら)のことですから、

 

本来、呼吸は腹式呼吸で行われなければならないのですね。

 

脾胃の中には、水と火があります。

湿土と燥土ですね。

 

これによって、中央である脾胃において一身の上下の動きを担っているわけです。

身体の一番「中」の「中」は脾胃なんです。

 

そして、脾胃であるお腹のところには、「ふいご」があるのですね。

この「ふいご」が膨らんだりしぼんだりして、呼吸運動の要となったり、一身の流れすべてを統括する中心を担います。

 

この「ふいご」のことを、「橐龠 tuo yue」といいます。

橐は袋を意味し、龠は笛を意味します。

 

天地不仁、以萬物爲芻狗。「天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。
聖人不仁、以百姓爲芻狗。「聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。

天地之間、其猶槖籥乎。「天と地の間は、其(そ)れ猶(な)お槖籥(たくやく)のごときか。
虚而不屈、動而愈出。「虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きていよいよ出ず。
多言數窮。不如守中。「多言はしばしば窮(きゅう)す。中(ちゅう)を守るに如(し)かず。

老子『道徳経』第五章

 

老子道徳経の中に「橐龠(たくやく)」という言葉がでてきています。

そして、最後に「守中」という言葉がでてきていますね。

 

いちおう現代語訳をのせますと、

天地自然の働きに仁愛の心は無い、万物を使い捨てにしている。
「道」を知った聖人の政治も仁愛の心は表さない、民衆に対して素知らぬ顔をしている。

天地自然の働きは空気を送り出す鞴(ふいご)の様なもので、
空っぽの中から尽きることなく万物が生み出され、動けば動くほどに溢れ出てくる。
仁愛をいくら言葉で言い表そうとも実行できずに終わるのならば、余計な事は言わない方が良い。

 

お腹がふいごのように膨らんだりへっこんだりして、

一身の気を動かしている状態が健康といえるのです。

 

これは、赤ちゃんの時にお臍を介して呼吸しているのですが、これを「胎息」といいます。この「胎息」を再び使えるようになれれば一番良い、という話になってくるわけです。

 

で、この「橐龠(たくやく)」がちゃんと働くためには「虚」である必要がある、と言っているのですね。

 

何が虚である必要があるのでしょうか。

 

「橐龠(たくやく)」が送り出すのは「気」です。

 

もちろん、ふいごである「橐龠」の中身がつまってしまっていたら、充分気を送りだすことができないでしょう。

 

ここで、気の古字をみてみましょう。

 

気の古い字は、「炁」と書きます。これで、「き」と読みます。

 

気=气=氣=炁 です。

 

「炁」の字の上の「无」は「無」という字。下の「灬」は「火」という字。

 

「炁」は「無火」という意味です。

 

ここで、人において火に属するのは「心」です。

 

つまり、「無火」というのは「無思無慮」の状態をあらわしています。

「橐龠」が機能するためには、心が空虚である必要があると言っています。

 

要するに、心がいろいろなものにとらわれず、赤子のように空虚になることができれば、「橐龠」がしっかりと機能して赤子が胎内で呼吸していた時のように生命力に満ち溢れた状態に還ることができる、ということです。

 

心死神活

「心死神活(しんししんかつ)」という言葉があります。

 

これは、心が死ねば神が活きるという意味です。

 

ここでいう「心」というのは後天的な意識のことであり、それに対して「神」とは先天的な意識=無意識の領域のことです。

 

あちこちにとらわれる心を殺すことができれば(雑念を払うことができれば)、

無意識領域の「神」が働いて無限の気や力が溢れでてくる、という考え方です。

 

だから、心が偏ることなく中を守ることが大切である、という教えこそが実は「天・人・地」三才の思想であり、太極観念の真髄なのです。

 

さいごに

さて、心身の間には呼吸があって、呼吸の間には脾胃があって、脾胃の中にはふいごがあって、ふいごの中には「空」があり、空とは結局は心を無にすることという、入れ子構造みたいな話になってしまいましたが、

 

突き詰めると「空(虚)」が最後にのこるのですね。

 

日常で「守中」を意識すれば、いいこともたくさんあります。

たとえば、自分を抑えることにだって使えます。

やめておけばいいのに、寝る前に甘いものを食べたいとしますよね。

 

この時、甘いものを食べたい自分と、甘いものを食べたら太るし食べたくない自分がいますよね。

 

どっちも自分です。

 

こんな時、偏陰偏陽はよくないと知っている自分がいれば、

 

どっちの見方をするのもよくないということになります。

 

甘いものを食べたい自分も認めて、甘いものを食べたくない自分も認める。

 

あぁ、そんな2つの自分がいるのか、と考えれば、意外と冷静になれる(?)と思います。

 

今日はちょっとストレス溜まっているからあまり抑えつけない方がいいか、と思うなら食べるし、よくよく考えてみると、そこまで食べたいとも思ってなくて、なんか義務的に習慣的に食べてるんだなと思えば、そんなに食べたいという気持ちもなくなってくる。

 

なんか食べなきゃ損する、みたいな気持ちで食べてしまっていたんだ、と気づくことができたり、それだったら明日か明後日でも本当に食べたい時に食べればいいか、と考えることもでてくるかもしれませんw

 

いろんな物事が、あまり執着なく考えることができるようになれればいいですね。

(禅僧みたいに毎日が同じでテンションの浮き沈みなく生きるよりも、いろんな誘惑に振り回されて波乱万丈の方が人生醍醐味があるという考え方もあるでしょうけど)

 

でも、人の命はろうそくのようなものです。

 

エネルギーを使えば使うほど、早くなくなります。

 

あれも欲しい、これも欲しいと色んなものに心が左右されて、

エネルギーを消費していたら、

 

あっという間に燃え尽きてしまうと思いませんか?

 

だから、養生という点では、心があっちこっちに動き回らないようエネルギーをちゃんと守る、

 

「守中」が大切なのですね。

 

三才の思想、なんとなく伝わりました?

 

▼「天人地三才の思想 その1」はこちら

 

hakutakudo.hatenablog.com

 

 

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