京都東山三条 白澤堂ブログ〜東洋の医学と哲学

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陰陽五行説

こんにちは!!!

京都東山三条の

鍼灸接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU

院長の長濱です。

当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 

今回ご紹介しますのは、これまで述べてきました陰陽論と五行説が統合した「陰陽五行説」について。

 

陰陽論と五行説はもともとは無関係に発展し、異なる起源をもつ思想であったことを述べてきました。この2系統の思想が結びつき、五行それぞれに陰陽の概念が合わさり、より豊かに世界を説明することができるようになったのです。

 

 

1.陰陽論と五行説の統合

陰陽論と五行説は独立した思想であると述べましたが、その性質はよく馴染み、急に統合したというよりは徐々に交わりあいながら互いを補完していったのではないかと思います。

 

両者とも自然のサイクルを観察することによって生まれた思想であるからでしょう。木で生じ、火で旺し、土で化し、金で収め、水で蔵するという生・長・化・収・蔵(せい・ちょう・か・しゅう・ぞう)という自然の流れは、万物の成長と衰退を司る陽と陰の循環と同じことです。

 

最初に陰陽と五行を結びつけたのは紀元前三世紀前半、中国戦国時代・斉の国の鄒衍(すうえん)という陰陽家だと云われています。燕の国に赴いた鄒衍は燕の昭王に師となるよう頼まれ、そこで陰陽主運説を作ります。著作は失われてしまったので、内容は他の文献から推測するしかないようですが、

 

彼は陰陽主運説の中で木・火を陽、金・水を陰に配当しています。これが陰陽五行説の萌芽であると云われています。五行は同格ではなく、土は中央に位置し、他の四行よりも格が高いとする「土王説」はここから発展したと考えられています。《黄帝内経素問・太陰陽明論》にも脾土が中央に位置し他の四臓に長じるとの記述があります。

 

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陰陽主運説と土王説

 

 

他にも、鄒衍は王朝の移り変わりを五行の相克によって説明したこともよく取り上げられています。土木金火水の五徳(五つのエネルギー)の移り変わりによって古い王朝が敗れ新しい王朝の時代が来るという説です。中国の始まりはやはり土徳の黄帝から始まり、木徳の夏王朝→金徳の殷王朝→火徳の周王朝→水徳の秦(秦からは皇帝になります)という具合です。秦はこの考えを採用し、五徳が一巡した最後の秦こそが未来永劫続くと考えていたとのことです。

 

陰陽と五行の統合が広く一般化されはじめたのは、戦国時代末の呂不韋が『呂氏春秋』の中で、干支のうちの十干(殷代からの暦の記日法)に陰陽論と五行説を結びつけて論じたあたりからです。

 

その後、《黄帝内経》で五臓と六腑の病因病理や運気論にも陰陽五行説が用いられ、《難経》では脈診における陰陽と五邪の区別が論じられるなど、現代中医学の基礎が陰陽五行説の導入により築き上げられてきました。

 

2.十干

十干(じっかん)については、別の機会に詳しくご紹介しますが、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸(こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん、じん、き)という字で、十二支とともに年月日を表す記号のようなものです。

 

十干十二支は東洋医学の実際の臨床においても相当有用な概念で応用性が高いものですし、陰陽五行説においても極めて重要な位置を占めます。十干十二支の干と支をとって、干支:「かんし」とも読みますが「えと」と読むのが一般的でしょう。

 

しかし、本来「えと」というのは十干の方に対して用いる言葉でした。というのも、例えば十干の甲は「きのえ」、乙は「きのと」と訓読みし、それぞれ「木の兄」と「木の弟」という意味です。兄は陽であり「え」と読み、弟は陰であり「と」と読むのです。「兄弟」あわせて「えと」と読みます。要するにこれは十干の総称なのですね。

 

十干すべてを訓読みで書きますと、

甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、

 

甲:木の(兄)陽

乙:木の(弟)陰

丙:火の(兄)陽

丁:火の(弟)陰

戊:土の(兄)陽

己:土の(弟)陰

庚:金の(兄)陽

辛:金の(弟)陰

壬:水の(兄)陽

癸:水の(弟)陰

 

各五行に陰と陽の別ができて、五行と陰陽がドッキングしています。ここに人体の臓腑が割り当てられたり、暦と関連づけられたり、方角や時期に意味付けたりと、現実へ応用する可能性の幅が広がりました。

 

お馴染みの子・丑・寅・卯…の十二支にも五行の陰陽が当てはめられましたが、こちらは五行の五つに対して十二個ありますから、十干の方が五行の陰陽でうまく収まったのに比べ、十二支に五行の陰陽を当てはめるのには、少し工夫が必要となりました。

 

十二支と五行の内容についても、今後ご紹介していきます。

 

いずれにせよ、十干と十二支合わせて、六十干支にて暦を表記していました。

 

通常十干と十二支をそのまま合わせると10×12で、120通り。

 

ぜんぶで120干支になるはずなのですが、

陽干の時には陰支、陰干の時には陽支が配当されて、陰陽がひっつくようになっており、陽同士と陰同士はありえないということになっています。

 

そのため、半数の60干支で上手く暦を表すことができています。一回りが120年先となると、大変ですよね。おかげで60年のスパンで回るので、還暦を迎えることもできます(世界最長齢の120歳の方なら、二周していることになりますね^^;)

 

3.四方と四季と陰陽五行

十干十二支も陰陽も五行も、生まれ、栄え、衰え、死ぬという自然界普遍の循環に則った哲学です。

 

故に空間と時間においても、地球が太陽の周りを自転しながら公転することで、一年を通じ、また一日においても、四季や方位に永遠普遍の循環する影響を反映します。

 

四季や方位をはじめ、陰陽五行説は万物の変化のプロセス、発生と展開の法則、自然と動植物の感応、万象の説明に至るまで、幅広く一つの理によって理解しようとするところが、非常に演繹的であると感じました。

 

この演繹的手法は、現代の自然科学が見直さなければならない部分といえるでしょう。

 

 

先の十干は五行にそれぞれ陰陽の別をつけたものですが、陰陽主運説にはじまる木・火を陽、金・水を陰とする見かたもあります。

 

朝日が昇り始める東の方角と、温暖になり始め万物が芽吹く春を、障害があろうと伸び伸びと曲がりくねりながらも成長する樹木で象徴し、

真昼に太陽が高くあがる南の方角と、一年において最も暑くなる夏を、燃え盛り上へと昇る火で象徴したことから、

木・火は合わせて陽となります。

 

夕方に日が沈みはじめる西の方角と、気温が冷涼で万物が収まり静まる秋を、冷たく堅く沈みこむ金で象徴し、

夜に日が隠れる北の方角と、寒冷で万物が閉じこもる冬を、冷たいながらも生命を育む水で象徴したことから、

金・水は合わせて陰となります。

 

木・火・金・水は陰陽の循環と同じように巡り、土が変化の基盤となり各フェイズに移行する緩衝材のような役割も果たします。

 

陰陽と五行が結びつき、自然の中に潜む「生まれ、長じ、変化し、収まり、閉じる」というサイクルが繰り返されるという性質を、世の諸々の事象にまで拡張して応用する哲学となりました。

 

なるほど、そのように考えてみれば、あながち迷信ではないような気もしてきます。

多様に変化する世の中にも、変化しない性質(=〈構造〉)が潜んでいて、そこに着目すれば万物は終わりなき陰と陽の螺旋にすぎない。

 

そして、世界を陰陽五行の見かた、ものさしでみれば、確かにそうなっている。

 

自然の規律に敬意を払い、一体となってよりよい世の中とするために、現代になっても色褪せることなく文化風習の中に溶け込んでいるのが、陰陽五行説という哲学です。

 

京都東山三条 鍼灸・接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU