京都東山三条 白澤堂ブログ〜東洋の医学と哲学

東洋医学の魅力と奥深さを紹介するブログ

「気」の概念から東洋医学を考える

こんにちは!!!

京都東山三条の

鍼灸接骨院 白澤堂HAKUTAKUDOU

院長の長濱です。

当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 

東洋医学は中国古代からの「気」の思想を根幹として成り立っていると言えるでしょう。しかし、「気」とは何でしょうか?目に見えないものですし、そもそも「存在する」のでしょうか?

今回はそのようなことを、考えてみたいと思います。

 

私達は日常「気」という言葉を普通に使っています。元気、病気、雰囲気、気配り、天気、空気、気分…など挙げればたくさん思いつきます。

このように列挙すれば、人の生命力や心の作用、自然界の目に見えない事象に対して使われていることに気がつきます。

 

ここから推測できるのは、「気」という語は、やはり目に見えない何かであって、且つ、事物に影響を与えて変化させる何かに、用いられているのではないかということです。

 

現代で一番近い概念としては、「エネルギー」でしょう。「エネルギー」は事物の運動や状態に変化をもたらす原因となる潜在的な力のことです。さらに、エネルギーにも熱エネルギー、運動エネルギー、化学的エネルギー、電気エネルギーなどの種類があり、そのエネルギー形態を変化させます。

 

東洋医学で扱う「気」においても、「気化」という作用により、食物から得た水穀の精気や、大気中の精気を吸って、栄気や衛気、宗気と呼ばれる別の気の形態に化し(気の種類については、また別の機会にご紹介します)、生命活動に役立てています。

 

このように、「気」と「エネルギー」は似ていますし、結論から言えば現代では同義と考えて差し支えないでしょう。ただし、「気」の場合、自然科学の分野で使われるエネルギーだけではなく、精神や感情のエネルギーといった意味合いも含まれています。東洋医学では、怒・喜・思・悲・憂・恐・驚の「七情」という感情の気が過ぎれば、五臓を傷つけ発病すると考えるからです。

 

また、大昔から「気」がエネルギーと同様の意味を有していたわけではありません。初めは何か具体物を指す言葉であり、徐々にその意味が派生し押し広げられたと考えられます。

 

「気」という語のもつ意味が、どのように発展したのでしょうか。

 

文献の記述を元に、紐解いていってみましょう。

 

まずは「気」という字から。

Wikipediaで調べてみましょう笑。

 

「気」という字は日本での略記であって、正字は「氣」であると書かれています。また、「气」と「炁」も異体字であるようです(「炁」については、また別の機会にご紹介しましょう)

 

最古の漢字辞典である『説文解字』には、「“氣”とは客に芻米(食糧・ご馳走)をおくること也」とあります。また、「气」に関しては「“气”は、雲気なり、象形」とあります。ここでは「气」は雲だと言っているんですね。たしかに、字をみると、雲のようなスジが三つ流れるように象った字であることが伺えます。一番下の雲が垂れているのは、どこか地上から立ち昇った蒸気を表現しているのでしょうか。このあたりに、静止した雲ではなく、少し流れや動きを感じられますね。流れる雲といったところかもしれません。

 

後漢の『説文解字』よりもかなり遡り、上古(先秦時代)の文献である『易経』や『尚書』、『詩経』には「氣」の字はありません。代わりに、「愾(がい)」という字が用いられています。この「愾」は嘆息(ため息)の意味で、後漢の辞典『釈名』にも「気は愾なり。愾然として声ありて形なきなり」とあります。「いっぱい立ち込めているが、声だけあって形のないもの」と言っています。

 

何がいっぱいに立ち込めているのでしょう?

 

「愾」は、「忄」りっしんべん+「氣」で、心から感情が吹き出すさまを表しています。要するに、胸いっぱいに感情がこもっているさまです。「声ありて形なき」ですから、「目に見えないものが(ある空間の中に)立ち込めている」というようなイメージです。だんだん、「気」のイメージに近づいてきましたね。私達は、胸がつまるような思いをした時に、はーっと吐き出したくなります。はーっと吐き出したとたん、胸がスーッと楽になります。目に見えないけれども、何かが溜まっていたのではないかと、そう感じられます。ため息(気息、呼吸)を意味する「愾」の字から、この世には、目には見えないが充満する何かが存在するのではないかと気づかされます。

 

米の入った「氣」の字は、戦国初期の銅器に初めて登場します。このあたりから、食べ物がもつエネルギーを表すようになります。私達人間だけでなく、動物は何かを食べなければ、力が弱って倒れてしまいます。食べ物を食べることで力が充満してくる。腹一杯になって、何かしらの力が身体に巡り、満たされる。空腹時に食事をとったならば、よけいにその感覚を実感できることでしょう。

 

そして、『論語』や『荀子』に、「血気」という語がみられるようになります。食べて得たエネルギーが「血気」となって、身体を巡り、生命活動に「気」が関わっていると認識されているさまが伺えます。

 

さらに発展して、『荘子』の「知北遊篇」には、「人の生や、気の聚(あつ)まれるなり、聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る」と、はっきりと人は気のエネルギーが集まって生きているのであると説いています。そして、陰陽の気がたがうことにより人の病気が起こり、気が上れば人は怒り、下れば忘れっぽくなり、上らず下らず心臓に気が当たれば病気になるなど、人の身体の中の気の流れにまで言及されています。

 

ここで、陰陽という言葉がでてきました。

陰陽の語自体は『詩経』や『易経』など古くからみられ、初期には日陰や日なたの意味でした。次第に「気」は陰陽と結びつけて論じられることとなります。

 

例えば『老子』には、「一陰一陽、これを道という」「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、冲気をもって和と為す」というのが有名です。また、『荘子』の「則陽篇」には「天地は形の大なる者なり。陰陽は気の大なる者なり」とあり、この頃になって初めてはっきりと陰陽は気であると説き、陰陽概念と気を直接結びつけて述べられるようになりました。「気」が、万物自然の生成の基礎となりはじめます。

 

淮南子』の「天文訓」では、「気を吐く者は施し、気を含む者は化し。是故に陽は施し、陰は化す。天の偏気、怒るものは風と為し、地の含気、和する者は雨と為す。陰陽相薄り、感じて雷となり、激して霆となり、乱れて霧となる。陽気勝てば則ち散じ、雨露となり、陰気勝てば則ち霜雪となる」と述べられています。

 

少し意味が分かりにくいですが、天が気を吐き(天と吐くは陽に属す)風を起こし、地が気を含んで(地と吸うは陰に属す)蒸気となって昇り雨を降らし、という陰陽の交流が自然現象、天候の変化をもたらしているといっているのです。陰陽と気がひっついた言葉である陰気と陽気が明記されていますし、しかもそれらの勝ち負けによって自然が変化し、天候が変わるとしており、「気」の概念が万物自然の生成と運行変化に関わるところまで発展しているのが分かります。

 

ここまでをまとめますと、

「气」とは初め流れる雲という具体物をあらわす語であったのが、呼吸や大気といった目に見えないものの流れをあらわす意味をもつようになってきます。「气」の中に米の字が入り「氣」となることで、食べ物のエネルギーをあらわすようになり、「血気」となって全身をめぐり、人の生命は気のエネルギーが集まることによって成り立っていると説明されるようになりました。さらに、陰陽概念と結びつくことにより、陰気と陽気の二気の交流と勝ち負けによって自然現象を説明するにまで至ったということです。このような経緯を経て「気」の概念は、森羅万象を司る根源的なエネルギーへと昇華していったと考えられます。

 

現在の東洋医学はこのような哲学を背景に発展してますから、「気」が実在するかしないかは別として、目には見えないが事象が変化生成する働き自体は厳として存在するわけです。そのような働きを「気」の作用として捉え、「気」を原点として説明していくことは可能です。

 

世の事象を分けると千差万別、多種多様な個別の事象がありますが、東洋医学ではこれらを「気一元」の作用として、一元論として説明する体系です。要するに、全てはバラバラのようにみえて、気という一つの作用で繋がり影響しあっていると観るのです。

 

水面に石を投じると波紋が広がるように、「気」という概念を出発点として、万物にまで広げて説明しようとする思索の方法を「演繹」といいます。

 

 

東洋医学は、気を原点とした「演繹の医学」と呼ぶことができるでしょう。

 

 

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